大分大学医学部医学教育センター循環器内科 中川 幹子先生の投稿です。
私の女性外来「動悸・胸痛外来」を受診される胸痛の患者さんの中に、実は胸痛の原因が「胸」の中にはなく、「腹」の中にある場合があります。
西洋医学的検査で心臓疾患の存在が否定された場合、微小血管性狭心症の可能性は残りますが、胸痛時に心電図変化が全くない場合はこれも否定的です。原因不明の胸痛の多くは肋間神経痛や心臓神経症と診断され、適切な治療が提供されずに放置される場合があります。
「胸痛の原因が腹にある」場合に、まず思いつくのが逆流性食道炎による胸焼け様の胸痛です。
この胸痛は飲水で改善することが多く、鑑別点となります。
もちろん、胃内視鏡検査は必ず勧めます。その他、急性膵炎や胆のう疾患などで、胸部に痛みが放散することがあります。
中高年女性の胸痛に背部痛を伴っている場合、さらには左上腹部痛や腹部膨満感もある時には、「脾湾曲部症候群」の存在を疑ってみましょう。
胸部レントゲン写真で左の横隔膜が右より高く(通常は右側が高位)、横隔膜の下に結腸ガスの貯留を認めます。また、心窩部から左上側腹部にガス貯留を示す鼓音を認めます。冷えや便秘があることが多いが、必ずしもないこともあります。
患者さんにどんな痛みか尋ねると、鈍痛が持続し、時々刺すようにキヤっとする痛みがあると答えれば、漢方薬の当気湯の出番です。
私は当気湯と聞けば、故 木下優子先生の教えをいつも思い出します。
木下先生は、「当気湯を使う患者さんの特徴は、左脇腹から胸へナイフでグサッと突き刺されるような痛みがあります」と身振り手振りで表現されていました。
「ナイフでグサッと突き刺されるような痛み」という言葉が耳に鮮明に残っていましたが、そんな激しい表現をされる患者さんに遭遇することはなかなかありませんでした。
私が初めて当帰湯を使用した症例は、「2ヶ月前にピンポイントに背部痛あり、それ以後、左前胸部から左腋窩にかけて鈍痛が1日中持続し、一瞬キヤッと刺し込むような痛みがあり、冷汗が出ることもある。
テレビで観た微小血管性狭心症ではないか」と受診されました。
以前、循環器科で各種検査を受けたが異常なく、胃内視鏡検査で慢性胃炎を指摘されたとのことでした。
胸痛時の心電図は正常でしたが、胸部レントゲン写真で左横隔膜の挙上を認めました。微小血管性狭心症に有効であるカルシウム拮抗薬は無効で、当帰湯が著効を呈しました。胸痛は徐々に軽快し、4日目には完全に消失しました。
当帰湯を飲み始めて、ガスが良く出て腸が動き出し、気持ちが良いとのことでした。
脾湾曲部症候群とは、結腸の脾弯曲部が、ガス貯留によって拡張したことによる症状を呈する病態です。多くは呑気症(空気嚥下症)のために嚥下された空気であり、過敏性腸症候群の一つの型とされています。症状は左側胸部に放散する左上腹部痛や腹部膨満感で、排便・排ガスによって軽減します。
また左横隔膜を押し上げるため、狭心症と似た症状を呈することもあります。当帰湯を構成する生薬(当帰、芍薬、人参、黄耆、山椒、乾姜、桂皮、半夏、厚朴、甘草)の中に、大建中湯(人参、山椒、乾姜)、桂枝加芍薬湯(桂皮、芍薬、甘草)、半夏厚朴湯(半夏、厚朴)の成分が含まれています。
腸管を温めて緩めて動かすことにより排便・排ガスを促進し、結腸脾湾曲部の拡張が改善することにより横隔膜の刺激が消失し、胸痛が消失したと考えられます。さらに不安(気鬱)による呑気症も改善します。
レントゲンもない時代に、本当によく考えられた処方だと改めて先人の知恵に感服します。
患者さんには「胸が痛いから心臓が悪いと思っていたのに、お腹が原因だったのですね」と驚かれますが、スッキリ治って喜ばれます。
大分大学医学部 医学教育センター、循環器内科
中川 幹子
http://www.med.oita-u.ac.jp/junkanki/about/staff/nakagawa.html
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